北朝鮮帰国事業写真集 新潟の波止場からの旅立ち 撮影小島晴則

数々の悲劇を生んだ北朝鮮帰国事業。その写真記録。

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ただ、出典を「写真で綴る北朝鮮帰国事業の記録(小島晴則著 高木書房)」と明記ください。

小島晴則さんが写し続けた北朝鮮帰国者
前川恵司(ジャーナリスト)
 新潟県帰国協力会の元事務局長で日本共産党員だった小島晴則さん(82)は、帰国事業開始実施が決まる1959年夏ごろから約10年間、カメラのシャッターを押し続けた。帰国第1船を前にした慌ただしい、新潟の動きから、新潟駅での出迎え、日本での最後の宿となり、また帰国への最終的な意思確認が行われた日赤センターでの様子、数々の行事、新潟港を離れる人々と見送る人たち……。
 人は、天からの授かりものだろうと誰からもいわれる、ひときわ輝く才能を持っているものだ。小島さんの写真には、写真の世界で生き、実力を磨いたならば、と思わせる力がある。子どもの頃からの写真好きが、ここ一番という舞台に巡り合って、輝きを放ったに違いあるまい。
 帰国事業の時代のころの写真界は、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」に代表される、リアリズムの黄金期だった。リアリズム写真の神髄は、「あるがままに写し込む」だが、小島さんの写真もその影響を強く受けている。もともと、小島さんは農家の長男坊だった。日本共産党に入ったのも、当時の社会的な雰囲気と同時に、朝3時から起き、飯を作り、田畑に出る辛い農民の生活から抜け出したい気持ちがあったが、農業で腕の力が鍛えられていた小島さんの写真は、暗いところでも、ほとんどぶれないで写し込んでいる。日赤センターなどでの帰国者の情景が、静かに去っていく人々の姿を良く伝えているのは、小島さんが柔らかい光だけで表現しているからだ。
 農民のもつ厚かましさも小島さんの写真の骨格になっている。望遠レンズはほとんど使わず、一歩も二歩も踏み込んで、眼前で写し。臨場感をそのまま表現している。同時に、余計なものが巧まずにして消えている。 楽園と信じた祖国への期待と人生の夢に追い立てられるように船上の人になった帰国者の表情は、真剣だが明るい。感激であふれている。見送る人々は、別れは哀しくも、悲しみの別れでない気持ちの高ぶりを隠していない。
 しかし、2日後に清津港に着いた瞬間、船上の夢は粉々になった、と帰国脱北者の多くは語る。小島さんが、清津港にいたら、北に消えていく人々を追い、どんなショットを残しただろうか。
(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会発行 『光射せ!』より)
 
 
左写真:①1965年3月27日 第123船(※日時、船便名などは小島さんのネガ記録から)

外部リンク・著作紹介


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幻の祖国に旅立った人々
北朝鮮帰国事業の記録

編者 小島晴則
ISBN978-4-88471-433-8
定価2,160円(本体2,000円+税)

『新潟協力会ニュウス』合本復刻版。
平成26年は北朝鮮帰国事業が開始されてから55周年にあたる。その全盛だった時代を刻銘に記録した昭和35年~39年発行の『新潟協力会ニュウス』を収録。
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写真で綴る北朝鮮帰国事業の記録
帰国者九万三千余名 最後の別れ

著者 小島晴則
ISNB978-4-88471-449-9
定価3,780円(本体3,500円+税)

帰国事業の現場を撮影し続けた著者が、手持ちの写真を紹介しながら、その時々の思いを綴る。地上の楽園を夢見た帰国者、そして日本人妻たち……次第に消えていく帰国者の笑顔。歴史の証言書である。
 
 

帰国事業写真(クリックすると大きな画像が表示されます)


②1959年12月14日 第1船 「歴史が動くと感動した」と小島さん

③1960年2月12日  第8船 金さんは「祖国で嫁をもらう」と旅立った

④「祖国での暮らし」に何の心配もないと、帰国者は信じ込まされた(日赤センター)

⑤1960年4月15日の 第17船には、1077人が乗り込んだ(新潟市内で)

⑥1960年9月2日の第37船での帰国者。日赤センターは週ごとに帰国者が入れ替わった

⑦1961年5月19日の第59船出港の前日の記念写真(日赤センターで)

⑧1961年5月26日の第60船で、帰国者は6万人を超えた(日赤センターで)

⑨岸壁は、見送りの人々で埋まった。その熱気で帰国を決めた人もいた

⑩1961年4月14日の第55船帰国者は、配船中断で70日間を日赤センターで過ごした

⑪1960年6月4日 李さんの送別会では尾頭付きのタイ3尾がふるまわれた

⑫1960年6月7日 李さんは日赤センターに向かう帰国者の先頭にいた(新潟市内で)

⑬1960年6月10日の第25船。李さんほか1085人が帰国とある


⑭1967年12月22日の第251船の帰国者。その後3年間の中断となり、小島さんは活動をやめた。